「カオラックのひとたち」
以下の記事は、Japan Mail Media(JMM)Friday Edition
春(はる) 具(えれ)氏投稿のメールマガジンより転載許可を得て掲載しております。
■ 『オランダ・ハーグより』 春 具 第106回
「カオラックのひとたち」
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■ 『オランダ・ハーグより』 春 具 第106回
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「カオラックのひとたち」
インドネシア一帯を襲った津波からほぼ2週間あまりが過ぎました。わたくしどもも知っているハーグのアメリカンスクールの先生がクリスマス休暇に夫婦でタイのカオラックに旅行に行き、そこで津波にあった。かろうじて戻ってきた彼女が同僚・友人に宛てたメールが我が家にも届きました。
アルレット・ステイプという中学生のクラスの担任で、ほかにもESL(English for Second Language )を受け持っている先生です。ご主人のトムはバンジョーを弾く。「日本にも行ったことがあるよ」と話す気のいい夫婦であります。以下はその彼女からのメールです。許可をもらって訳してみました。
わたしたちはプーケットの北にあるカオラック(一番被害の大きかったリゾートである)にバンガローを借りていた。バンガローは丘の中腹にあり、ホテルはその上にあった。
あの朝早くに音響とともに建物が揺れ、起こされたわたしたちはタイではこんな早くから工事の仕事を始めるのかと文句を言ったものの、時差のせいでまた眠りに引き込まれた。
ようやく10時ごろ起きて上のホテルまで朝食に行くと、テラスから一望の海がずっと沖まで水が引いていた。ひとびとはそれぞれに沖のほうまででて貝殻を拾ったりジョギングをしたり、浅瀬を楽しんでいた。
けれども夫は数年カリフォルニアのビーチに住んでいたことがあり、この景色はすこしおかしいよと言う。どんなに引き潮でもこんなに水が引くことはないというのだ。
みるまに沖合いから津波の第一弾が向かってくるのが水平線にみえた。
夫はわたしの腕をつかみ、走り出した。ホテルの食堂は丘の上にあったが、わたしたちはホテルを出てさらに上のほうまで走った。こんなに走ったことはない。
わたしは息も絶え絶えになって後ろを振り向くことすらできなかったが、高い波はビーチを越え、ホテルをそのまま襲い尽くしてわたしたちの足元までやってきた。津波の音は、離陸する飛行機の真下にいるかのような凄まじい轟音だった。
丘の上でわたしたちはイングリッド、マルレーン、ニーナという3人のドイツ人とリサという8歳のオーストリアの少女と一緒になった。
高波が引いたあと、わたしたちはホテルまで戻ってみた。ロビーやフロント、ラウンジ、レストランはえぐられたようにゆがみ、波に巻き込まれた家具やソファーに叩きつけられたのだろう、ぐったりと倒れている人々は血まみれだった。
その多くはすでに死んでしまっているかのようだった。なかにリサの父親がいて、彼は紙のように白い顔をしていた。わたしたちは彼を丘の上まで運んだ。リサの母親は見つからなかった。
わたしたちは前夜、ホテルのディスコでスウェーデンのユルゲンという大きな体躯の青年に会った。彼はダンスがうまかったがほとんど英語ができなかったので、わたしたちとビールを飲みながらジェスチャーで会話をした。その彼がいまホテルにいた。体中傷だらけで血を流し、片方の腕は内臓がはみだしたかのようにぐちゃぐちゃになっていた。わたしたちは水をかけて砂を流し、体を洗ってあげた。彼はささやくような英語で「救急車を... 」と繰り返したが、そんな車はなかった。しばらく待った後、トラックが来て、わたしたちは彼を乗せ、トラックは彼を連れていった。
彼を病院へ送った後、わたしはぐったりとした。道路は倒木でふさがれてしまっているかもしれない。波に洗われているかもしれない。けが人は待合室でどれくらい待たされるのだろう。道はそうとうにでこぼこだし、病院はあまりに水際にありすぎる。わたしたちは、彼らを死に追いやってしまったようなものではないか...
若いドイツの女の子が、ボーイフレンドが見つからないとパニックになっていた。わたしは彼女の重そうなバックパックを背中からおろしてあげようとしたが、彼女はわたしを振り切って「これがわたしの持っているぜんぶなのよ」と叫び続けた。わたしたちはすっかり疲れきっていた。
だれかがもう一度津波が来るぞと叫んだ。わたしは近くにあったペットボトルのケースから水を一本抜いて持っていこうとしたら、そばにいたタイ人のおばさんに怒鳴られた。だまって取ったことを怒られたのだと思ったらそうではなく、彼女はもっと持っていきなさい、持てるだけ持っていきなさいと言ったのだった。
わたしたちは再び丘の上に避難した。リサのお父さんは肺に水がたっぷりたまっていて二歩も歩くと倒れてしまった。わたしたちは嫌がる彼を無理やり病院へ送ることにした。
わたしたちはチョーというタイの男性に会った。彼は海の彼方を見つめて、息子が漁に出ているのだと言った。彼の目は涙で赤くなっていたが、わたしたちにパパイヤを切ってくれ、「無事にお帰りください」と言ってくれた。
夜になって、わたしたちはホテルに戻ってみた。明かりも電気もなく、ラジオも携帯もない。誰もいない(つまり死体もない)部屋があったので、わたしたちはそこで休むことにした。あらゆるものが散乱している階下やビーチまで下りていく勇気はなかった。
外のスナックスタンドにはイドというタイの若い女性がいて、そのあたりをうろうろしていたわたし達50人あまりの旅行者たちにタイカレーの夕食をつくってくれた。彼女は叔父が行方不明になっていたが、肉親を探すよりも先にわたしたちに夕食の用意をしてくれたのだ。わたしたちはこのような信じられない親切をあちこちで受けた。
「今朝、プーケット島にいる叔父から津波が来るぞと携帯に連絡を受けたの。それですぐにホテルに電話をしてそのことを知らせたけれど、誰も信じてくれなかった。ビーチまで走っていってみんなに伝えたのに、彼らも聞いてくれなかった」イドはそう話していた。
みんなでこの津波の経験を話し合ったが、ある男性ははぐれた友だちを探して死人の山をまたいで歩き、ショックで気が狂いそうになったと言っていた。別の男性は倒れている女性の鼓動が聞こえたようなので、駆け寄って人口呼吸をほどこした。彼女の歯ぐきはぼろぼろで、欠けた歯が口中に散らばっていた。ふっと、彼女が死んでいるのに気がついた。鼓動に聞こえたのは、彼自身の心臓だったのだ。わたしはそれ以上聞きたくなかった。
わたしの印象に残っているのは、スウェーデンの親子の話だ。アンダースという男性は津波が来た時、娘のソフィと巻き込まれ、いちどは離れ離れになったが、最後には娘を見つけることができた。ソフィは怪我をしていたが、それよりも死体に囲まれて海に浮かんだ恐怖で深く傷ついていた。
オーストラリアのハリーの話も衝撃だった。津波が来た時、彼は流れてきた車に叩きつけられて膝を折った。やしの木が妻にぶち当たり、彼女は木とともに流されていった。波が去った後、自動車は砂地に沈んで埋まり、ハリーはその窓枠につかまってしばらく様子を見ることにした。だれかが次の波が来るぞと怒鳴った。彼はぼんやりして時間をつぶしたことを悔やんだ。そんなことならば妻を捜しに行くべきだったのだ。それを思い出すたびに、涙が出る。これからオーストラリア大使館へ行って捜索願をだそうと思うが、そんなことをしても役に立つのかわからない、と彼は言っていた。
別の男性はバンガローで朝風呂に入っていた。津波が来て、彼はバスタブごと窓からはじき飛ばされた。妻も別の窓から流されていった。彼は妻が死んだとは信じられないといっていた、「オレは彼女の死体を見ていないのだからね」あとで聞いたところでは、妻は高い木に引っかかっていたのだという。
ほかにもいろいろな話を聞いた。波にもまれる中、テレビや冷蔵庫が飛んできて吹っ飛ばされた、いやおれは飛んでくる自動車にはねられた、とかいう話だ。
そんな話を前にして、わたしたちにはなにも話すことがなかった。わたしたちは幸運な夫婦なのだろう。
翌日になって道路は通れるようになり、わたしたちは我が家へ戻ることになった。オランダの我が家だ。ハーグの家だ。
タイの男性がトラックを運転して、2時間かけてわたしたちをバスの停留所まで運んでくれた。彼はわたしたちが渡そうとしたお金を一銭も受け取ろうとしなかった。彼のとなりにはタイの女性がすわり、ナビゲートしてくれた。バス停でわたしたちが降りた後、彼女はまたそのトラックでおなじ村へ戻るのだと言った。
妹を探しに戻るのだ。これもわたしたちが受けたホスピタリティだった。彼らも自分の肉親より先に、わたしたちの心配をしてくれたのだ。
バス停では8時間待った。わたしたち夫婦だけが小さなスーツケースを持っていて、ほかのみんなは持ち物どころかほとんど海水パンツだけの裸だった。わたしたちは自分がバカに見えた。
バス停の向かい側に住む家族がお風呂を使わせてくれた。わたしはリサに片言の英語を教えながら一緒にお風呂を使った。わたしたちは交代でこっけいなことをして彼女を笑わせた。そうすることで、わたしたちは「ひょっとしてわたしは孤児になってしまったの?」という思いからリサの気をそらせるようにした。
わたしたちは朝6時に飛行場に着いた。あるひとの話では大使館で旅券を発行してもらおうとして半日待ったということだったが、わたしたちの経験は正反対だった。タイ航空のひとがわたしたちを空港の特別室へ案内してくれ、航空券、旅券をすべて整えてくれた。どこへでも電話をかけさせてくれ、わたしたちは温かい朝食を食べて新聞を読んだ。
イングリッド、マルレーン、ニーナ、そしてリサ。わたしたちは津波の後、結局60時間近く一緒にいたことになる。新しい家族のようなものだった。飛行場に着いて彼らに「さよなら」を言っているとき、リサのお母さんが生存していることがわかった。マルレーンとニーナがリサのおばあさんに電話をかけたら、そちらにもお母さんから連絡がいっていたというのだった。わたしたちは飛行場全部に響くくらい、思いっきり喜びの大声をあげた。
バンコックには、ハーグでわたしのアメリカンスクールの教え子だったペギーがタイ人の夫と住んでいた。わたしたちは彼女の自宅に寄り、休ませてもらった。BBCを見ながらわたしはBBCにメールを書き、タイの人々のホスピタリティについて感謝の言葉を書いた。書かないではいられなかったのだ。
ハーグの自宅に戻ったら、BBCからインタビューをしたいというリクエストがきていた。オランダの新聞もやってきた(わたしの夫はオランダ人である)。
わたしたちは、どんなにタイのひとたちが献身的に応対してくれたかについて繰り返し繰り返し話した。
隣に住む二コルが、放送を見てやってきた。彼女は500ユーロを持っていた。
これをNGOに寄付するつもりだったが、あなたたちに渡そうと思ってもってきたのだという。わたしたちはそれを受け取り、ほかの寄付とあわせて、イドのスナックスタンドへ送ることにした。
わたしたちがこの津波で出会ったタイのひとたちは、みんなすばらしいひとたちだった。自分たちが肉親や親戚を失っている悲しみの最中に、彼らは危険に立ち向かい、わたしたちを救いに来てくれた。どのタイのひとたちもそうだった。
例外はなかった。ひとりとしてわたしたちを見捨てなかった。そのことをわたしはヨーロッパにひとたちに伝えておきたい。
わたしたちは、いまもう一度タイへ行こうと思っている。そしてみなさんにも行って欲しいと思う。わたしたちがまた旅行することで、タイのひとたちに仕事ができ、生活が立ち直り、そのことだけでも復興の一助となると思うからである。
最後にひとこと ...
わたしたちは出会った人々に連絡を取り、消息を交換した。スェーデンのアンダースは娘と一緒に、妻と会うことができた。プーケットで病院に入ったら、同じ病院に妻が5分前に入院していたのだという。
リサは今はすでにお父さんと一緒になっていて、彼もうまく回復しているそうだ。お母さんは、じつは一足先にオーストリアの病院に送られていて、もうじき退院できるらしい。もうじきリサの家族は一緒になれるのだ。
わたしたちの話が報道されてから、寄付のお金が届くようになった。みんなイドに送って下さいというものだった。見知らぬひとたちから500ユーロ単位で届くようになった。ある家族は、300ユーロ送ろうとしたら息子たちが500でなければダメだというので、家族会議の結果、500ユーロにしましたと言っていた。わたしたちはみなさんの好意をバンコックにいるペギー夫婦に託し、イドへ届くように頼んでいる。
マルレーンとニーナとも電話で話した。彼女たちは今週末、ドイツから自動車を運転してハーグまで会いに来てくれると言っていた。
マルレーンは、「わたしは怪我したひとに親身になれなかった自分が許せていない」と話してくれた。わたしも同じ思いを持っていた。怪我人をトラックに送り込むだけでなく、なぜ一緒に乗って彼らと一緒に病院まで行ってあげなかったのだろう... この思いは辛く、いまでも胸を刺している。新年になって、まだあそこに浮かんでいる体があるというのに、シャンペンをすすり、花火をあげるなんて、ほんとに勝手だ。もし、もう一度、こんな緊急事態の経験をすることがあったら、わたしはけっして後で後悔しないような行動をとろうと思う。
わたしたちは、この津波からまったくの無傷で帰ってきた夫婦である。大勢のひとたちに会ったが、わたしたちくらい幸運だったカップルはいない。わたしたちは生きていられて幸せである。同時に、わたしたちほど運が良くなかったひとたちのために涙を流したいとも思っているのだ。
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春(はる) 具(えれ)
1948年東京生まれ。国際基督教大学院、ニューヨーク大学ロースクール出身。行政学修士、法学修士。1978年より国際連合事務局(ニューヨーク、ジュネーブ)勤務。2000年1月より化学兵器禁止機関(OPCW)にて訓練人材開発部長。現在オランダのハーグに在住。訳書に『大統領のゴルフ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140808993/jmm05-22
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「インドネシア・スマトラ沖地震情報」で、カオラックで被災された方の手記が掲載されていましたのでご紹介します。
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受信: Jan 19, 2005 12:46:03 PM
